南山城村とお茶

南山城村お茶物語

 南山城村にはお茶をどのようにして誰が伝えたかは、詳しい歴史が残されていませんが、天明年間に柳生から伝わったという記録があります。

 また一説によると、伊賀の玉滝村(現在の伊賀市上野)から伝わったものもあるそうです。

 当時はもちろん現在のような経営規模ではなく、山間の谷間で細々と栽培されていたようで、茶の栽培に適した場所でしか栽培はされていなかったそうです。

 主な栽培地としては、現在ダムとなっている名張川沿いが良質な茶の栽培に適していたようで、川沿いであるために砂と土が適度に混ざり、南北に長い谷であるために日照時間が適度に調節され、谷の湿気で晩霜害の被害も無いので早くから栽培されていたそうです。

 では、いつごろから現在のような和束町に次ぐ宇治茶の主産地となったのでしょうか?

 南山城村の茶の栽培が現在の地位にまでなったのは近世になってからです。

 明治時代には、すでに村内の田山地区では重要な産物であったと記されており、当時の田山は約200戸ほどの集落だったのですが、実にそのうちの161戸が茶業組合員であったと記されています。栽培規模としては、5から6反もあれば拾うほうであったようで、多くは屋敷の周囲に野菜や麦と一緒に栽培されていました。

 大正時代に入り、粗揉機や精揉機が使われるように、徐々に機械化が進んできました。

 昭和に入るとさらに機械会が進み、茶業農家の共同化もはじまった頃で、この頃の記録には茶業組合員は107戸となっています。明治時代の記録からすると減少しています。戦時中はやはり、食糧難であったこともあり、茶畑はサツマイモ畑や麦畑に変わっていました。

 そして戦後、栽培技術、茶業技術の向上により広大な丘陵地を活かした栽培が可能になりました。昭和40年代頃からは、多くの事業を使って大規模な茶園の開墾と、大きな共同工場の建設が行われて現在に至っています。

 南山城村のお茶の歴史は、茶業の技術の進展なくしては語れません。

 現在、南山城村では、京都船井での初の乗用式摘取機の導入を可能とする茶園を作っています。若い茶農家の青年達が新たな技術の習得を試みています。

 こうして、先人達が苦労して切り開いた茶業がまた次の時代へ受け継がれて、南山城村のお茶の歴史を作っていくのです。

北本製茶園、お茶作りへの挑戦

北本製茶園の茶園

 茶園面積は6ha。
 栽培品種はやぶきたを約半数の面積で栽培。他に、さえみどり、さつまかおり、こまかけ、うじひかり、おくみどり、ごこう等を栽培しています。
茶園

南山城村で最初に煎茶から碾茶(てんちゃ)へ転換

 南山城村で最初に煎茶から碾茶(てんちゃ)に変更しました。平成14年にてん茶のラインを完成。
 数年前より抹茶の需要の増大については他の地域、また色々な情報で理解していました。導入については品種の変更、工場のラインの導入に伴う投資が必要で、積極的な意見も交え、リスクもあるが、信条どおり前向きに取り組みました。

 その後村でも、何軒かの茶園がてんちゃ生産に着手されています。

まっさきに乗用茶刈機を取り入れた

 乗用型の茶刈機を最初に導入したとき、幸いにも私の家の畑は傾斜度も比較的なだらかで、茶園が一箇所に集中しているという好条件がありました。

乗用茶刈機 乗用茶刈機 乗用茶刈機